口の安心は魂の安心


 施食会(施餓鬼会)は、読んで字の通り、餓鬼道にあって苦しむ一切の衆生に食べ物を施して供養する法会ですが、「添えせがき」とか「付けせがき」といって、自分たちの先祖の追善供養をするのに、普段の供養回向よりも功徳があるとされ、どちらかといえば、こちらの添えせがきの方が熱心に行われている趣きがあります。
 しかし、本来は供養を受けられない無縁の精霊に供養するのがお施餓鬼ですから、その趣旨をよく理解することが大事です。
 餓鬼という存在について、著名な禅の学匠鈴木大拙老師は、こう書いておられます。
「餓鬼は六道の一つである。餓鬼は死者の霊であるが、飢えていて永遠に食物を欲しているように見えるので『餓鬼』として知られている。餓鬼とはおそらく、飽くことを知らぬ人間の所有慾を表しているのであろう。もしも無限に異なった形式をとって現われているこの世の貪慾が、すべて施餓鬼の法会を修することによって、満たされるとするならば、浄土はやがて実際に此土に現出するであろう」(禅堂の修行と生活)
 つまり、あの世の餓鬼と見える存在は、今を生きている私たち生者と全く遮断されたものではなく、我々自身の欲心とすぐ隣合わせの存在だというのです。
「そうすれば死者と生存者とは実際に区別せらるべきではない。いわゆる生存者とは死者によって生きている、すなわち、いわゆる死者と見るものはもっとも活々とした形で生存者の中に動いている。祈りは、そこで、豊かに正覚に恵まれんことを祈るの義もあり、感謝は『死者の霊』と共々に、正覚を証することの機会を味楽するを感謝するの義である」(同前)
 ですから、この世での貪欲に気づいて自らを反省することが大切です。「施す手は欲を捨てる手」なのです。
 いずれにしても、仏教は心の持ち方が大事であると考えます。
「三界は唯心の所造、万法は唯識の所変なり」という言葉がありますが、何ごともみな、心が本となって現れるのだという意味です。
 たとえば花を見て、「きれいだなあ」と思うとき、その気持ちはその人の心をきれいにしますので、それは仏心に近いものです。
 しかし、「きれいだから、枝を折って持って帰ろう」と思うと、たちまち貪りが生じます。そのむさぼりが餓鬼や畜生の心を生むと考えるのです。一瞬一瞬の思いの中に、地獄から仏までが生じ、それは常に電気が点滅するように変わっていくのですから、気をつけなければなりません。
 樹木の葉が光りの方へ向いて成長するように、人もまた自分の心を、きれいな方へ、むさぼらない方へと、いつも向けておくことが大事です。
 施食会は、知らず知らずに貪りを生じている我が身を反省し、仏心に立ち帰ることを願って供養する勤めと言ってもいいのです。

合掌

2021年07月20日